森に問いかけること

去年はメガソーラーの問題に追われた一年。森林を伐採してメガソーラーをつくることについての影響を、地質学や水理地質学の先生に話を聞きながら喧々諤々とやってきました。

理系か文系かに決めつける風習はあまり好きではありませんが、どうやらぼくは典型的な文系体質のようで、こんな時なかなか話が頭の中に入っていきません。
だからなのでしょうか、集落の上にある傾斜地で水源から数百メートルしか離れていないのだから土砂災害と水源への影響は当たり前で、わざわざ学問的に検証する必要があるのかと思ってしまします。


*赤い部分が計画地

同じ境メガソーラーを考える有志の会のメンバーの指摘ですが、湧水の周り以外は八ヶ岳の頂上に向かって開発されています。湧水の周りだけ取り残されたように森が残っています。昔の人は、この土地は開発してはいけないことをよくわかっていたのだと思います。
ぼくたちは、先人たちの生活の知恵を素直に引き継ぐべきではないでしょうか。

宮澤賢治の童話に「狼森と笊森、盗森(オイノもりとざるもり、ぬすともり)」というのがあるのですが、その冒頭で、森の外れの野原に入植を決めた人たちが、森に向かってここに住んでも良いかを問いかけています。

  「ここへ畑起こしてもいいかあ。」
  「いいぞお。」森が一斉のこたへました。
   みんなは又叫びました。
  「ここに家建ててもいいかあ。」
  「ようし。」森はいっぺんにこたへました。
   みんなはまた声をそろへてたづねました。  
  「ここで火たいてもいいかあ。」
  「いいぞお。」森はいっぺんにこたへました。
   みんなはまた叫ました。
  「すこし木貰ってもいいかあ。」
  「ようし。」森は一斉にこたへました。

     〜宮澤賢治全集8〜より抜粋

12月議会で町長は科学的に検証することの大切さの答弁をしました。
科学が発達して自然のことをなんでもわかったつもりでいるけれど、それは大きなおごりであって、ぼくたちはもっと自然に対して謙虚であるべきではないでしょうか。もっともっと「森に問いかける」べきではないかと思います。

哲学者内山節氏によると、ちょっと昔まではキツネにだまされたということが、ごく当たり前に日常のなかにあったそうです。しかし、1965年を境に人はキツネにだまされなくなったそうです。文明の発展とともに自然の捉え方が変わってきたということですが、その著書のなかで印象的な文章があったので抜粋しておきます。

現代の私たちは、知性によってとらえられたものを絶対視して生きている。その結果、知性を介するととらえられなくなってしまうものを、つかむことが苦手になった。人間がキツネにだまされた物語が生まれなくなっていくという変化も、このことの中で生じていたのである。

                    〜日本人はなぜキツネにだまされなくなったか

去年、環境NGOの人たちとの懇談があったのですが、彼らは自然を「知性」によってしか考えられないように感じました。彼らはとても頭の良い人たちです。自然エネルギーに関わっているベンチャーの人も頭の良い人たちです。
でも自然については、内山節さんがいう「知性を介するととらえられなくなってしまうもの」の部分がとても大切に思えてなりません。

「狼森と笊森、盗森」は、森に問いかける謙虚さはあるのですが、入植した後、収穫について喜ぶばかりで森への感謝を忘れてしまします。その都度、奇妙な事件が起こり「森が自分たちを滅ぼす可能性」があることに気づき、自然に対する畏怖を思い出しては贈り物をしたりするのです。宮澤賢治は、ぼくたち人間は自然に対する畏怖の念を、ついつい忘れがちになりやすいと警鐘を鳴らしているのではないでしょうか。

3.11の震災に対し、科学は無力でした。
その後も、御嶽山の噴火、熊本の地震、様々な自然災害がありました。
科学が発達したとしても、自然の威力は強大で、ぼくたちは常に自然に対して畏敬の念を持つべきではないでしょうか。
森を開発してまでのものを、自然エネルギーとは言って欲しくありません。

いま、「森に問いかける」謙虚さが、僕たちには必要だと思います。

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