映画「ハンナ・アーレント」

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先日、松本に映画「ハンナ・アーレント」を観に行ってきました。

映画は60年代にアルゼンチンで、逃亡中のナチスの高官アイヒマンが捕えられるところこら始まります。

第二次大戦中、ナチスはユダヤ人の大量虐殺を行いました。アイヒマンはユダヤ人を強制収容所へ移送し、ヨーロッパにおけるユダヤ人問題の最終的解決(ホロコースト)の実行を担った指揮官です。

捕われたアイヒマンは、エルサレムで裁判をすることになります。
哲学者アーレントは、この裁判を傍聴するため雑誌「ニューヨーカー」の特派員となりエルサレムに渡ります。
アーレント自信もナチスの迫害を避け、ドイツからアメリカに亡命したユダヤ人です。

ところが巨大な悪の化身として想像していたアイヒマンは平凡な小役人にしか見えません。

「ユダヤ人殺害には私は全然関係していなかった。私はユダヤ人であれ非ユダヤ人であれ一人も殺していない。」

「たまたま・・・私はそんなことをしなければならぬ立場になったのです。」

                         〜イェルサレムのアイヒマンより〜

アイヒマンは、自分は移送に関与しただけで直接殺害をしたわけではなく、命令に従っただけ。と一貫して無罪を主張します。

アーレントは、ヒトラーのような怪物的な悪の化身ではなく、実定法や権力者の命令に忠実なだけの平凡な小役人として雑誌「ニュヨーカー」に寄稿します。

彼の述べることは常に同じであり、しかも常に同じ言葉で表現した。彼の語るのを聞いていればいるほど、この話す能力の不足が考える能力、つまり誰か他の人の立場に立って考える能力の不足と密接に結びついていることがますます明白になって来る。アイヒマンとは意志の疎通が不可能である。それは彼が嘘をつくからではない。言葉と他人の存在に対する、従って現実そのものに対する最も確実な防衛機構(すなわち想像力の完全な欠如という防衛機構)で身を鎧っているからである。

                         〜イェルサレムのアイヒマンより〜

悪とは陳腐なもので、恐るべき残虐行為を前にしても権力への服従になんの疑問も持たなかった良心の欠如、思考能力の欠如、判断力の不在が問題だと書きました。

またユダヤ人自身が、特にユダヤ人長老評議会がナチスに協力したことも書きました。

このことでアーレントに対し非難・批判が殺到します。
大犯罪者アイヒマンを擁護した裏切り者というわけです。

このニューヨーカーの記事は後に「イェルサレムのアイヒマン〜悪の陳腐さについての省察〜」として本になりました。
ぼくがこの本にであったのは20年ぐらい前のこと。かなりの影響を受けました。

アーレントには誹謗中傷が集まり、大学からも退職を勧告されます。
そんななか、学生たちの前での渾身のスピーチです。

「人間であることを拒否したアイヒマンは、人間の大切な質を放棄しました。それは思考する能力です。その結果、モラルまで判断不能となりました。思考ができなくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです。
思考の嵐がもたらすのは、知識ではありません。善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。私が望むのは、考えることで人間が強くなることです。危機的状況にあっても、考え抜くことで破滅に至らぬよう。」

学生たちからは拍手が沸き起こりましたが、ユダヤ人の旧友たちは離れていきます。
思考不能だったアイヒマンとは対照的に、非難にさらされ、孤立しても思考への忠誠を貫く姿は感動的です。

アーレントのように、どんなときでも考え行動していきたいものです。

 

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